仁清蜻蛉形手附鉢      岡田宗叡

 直徑が三寸八分ほどの浅い鉢を、上から覆うようにして、一匹の蜻蛉が止まっている。――と、まあ、このような意匠の鉢であるが、勿論のこと、その蜻蛉は、生きたものではない。
 鉢の圓形を、水辺にみたてて、蜻蛉をその上に遊ばせているわけであろうが、蜻蛉の形を、単純ではあるが、絶対に必要な五つの線で構成して、もう一つの線の頂点に接觸させて、それがまるで、水辺に生えている植物の莖にでも止まっているかにみえる、造形の妙。鉢の把手をそのように巧みに意匠しているのであるから、まことに心憎い仕業といわねばならぬ。
 この心憎い、そして、風雅な器物の作者の名は仁清(にんせい)、京窯の最高峰とたたえられている名陶工である。そして、この蜻蛉形手附鉢にかぎらず、彼の作品に、そのように風雅なものが感得されるのには、理由がある。――なぜなら、彼の背後には金森宗和(名は重近、従五位下飛騨守、剃髪後に宗和法印と称し、茶をよくした。明暦二年十二月十六日残、七十三才)という傑れた茶匠がいて、彼の仕事を指導していた、からである。
歿 仁清作品の特色の一つは、轆轤(ろくろ)の美事さである、と、いわれている。――轆轤は、陶器の形を作りあげる器具であるが、これを使用する工人の技倆によって、その作品の上手下手は勿論のこと、藝術作品として最も肝要な品位までが、それに現われてくるものである。仁清の生地は丹波国桑田郡野々村郷であり、京にのぼるまでは、丹波焼に従事していたといわれるが、丹波焼にみるあの轆轤の確かさの傳統は、仁清の作品の特色となって顯われている、といえよう。
 仁清の代表作である国宝の色絵藤花文茶壺(箱根美術館藏)、重要文化財の色絵山寺文様壺(根津美術館藏)、色絵若松文様茶壺(山本条太郎氏藏)、色絵梅月文壺(旧御物、東京国立博物館保管)その他の壺類を、そして数ある茶碗の類をみても、そのことは肯かれる。
 たとえば、その壺は、壺という形のもつ、もっとも美しい形を、その口造りに、肩の膨らみに、そしてまた、腰の線にみなぎらせているし、茶碗は、茶碗という形のもつ、もっとも麗わしい姿を、その口造りに、胴の張りに、そして高台のしめくくりに、具現させていることである。いえば、陶器の造形において完璧であることが、仁清作品の特色の一つとみられていることである。
 仁清のもう一つの特色としては、色絵が挙げられよう。色繪とは、いうまでもなく、色釉による装飾文様であるが、仁清の場合、緑、青、紫、黄、赤の各色のほかに、金の使用が目立っていることと、黒に獨自の艶と彩をもたして、それが仁清黒と呼ばれる程の美しさをあらわして、多く使用されていることである。高火度焼成の磁器に色絵を加える技術は中国の明時代に完成し、江戸時代の初期には日本にはいり、肥前の有田地方で行われていた、と考えられているが、この色絵の技術を磁器よりも焼成火度の低い陶器に移植したのは、京窯の技術者達であり、その技術を最高のものまでにたかめた人は仁清であると、いえよう。仁清の色絵は、圖様に中国陶器の影響を脱して、日本的なものに消化しつくしていることであり、彼の指導者であった金森宗和と交渉の深い当時の堂上貴族の文化を反映したとみられる、優雅さ、品位の高さ、を示していることである。
 蜻蛉形手附鉢には、その華やかな色絵は用いられていないが、かれ仁清が、その傑れた轆轤技術を縦横に展開してみせた、小壼芸術ともいうべき、抹茶用の茶入と同じように、鉄釉一色である。色絵の華に対する鉄褐色の錆である。華やかな藝境がさらに昇上し結晶したものがほかならぬ、さび、わびの究極であるとすれば、むしろ、この鉄一色のなかに色絵のあらゆる色彩が含まれて、表現されているとみて、差支えがなかろう。

   (昭和33年2月6日 森林商報 新62号)

【岡田宗叡(オカダ・ソウエイ)】
 明治四十二年千葉県に生れた。蕪子・小野賢一郎に入門、俳句を学ぶ。後に俳誌『鶏頭陣』を編集。さらに『詩の家』『Rien』等の詩誌同人ともなる。昭和十年、古陶磁趣味雑誌『茶わん』編集長。美術商、古陶研究家としても知られた。


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